ポレポレ先生の実践日記

小学校で教員をしています。日々の出来事、思いを書いています。

善の研究を読む その③ 善と自己

「善とは一言でいえば、人格の実現である」と西田幾多郎は、言っている。

いろいろな方の解釈をまとめてみると、我々の中の可能性を開花することが「善」のようだ。

 

かく考えて見れば、意思の発展的完成は、直に自己の発展的完成となるので、善とは自己の発展的完成 self-realization(自己実現)であるということができる。即ち我々の精神が種々の能力を発展し円満なる発達を遂げるのが最上の善である。

(第三編「善」第九章 善 活動説より抜粋)

 

西田幾多郎は、「自己」を、自分自身のことと定義づけはしておらず、人と不可分な関係を自己としている。つまり、「自分の自己実現のために目標を達成しましょう」ではなく、むしろ自分を手放し、人とは切り離すことができない関係を自己と定義づけているようだ。

自己というのは、自分だけの力では存在しえない。つまり、「人があっての自分」=「自己」ということなのだろう。

また、第三編 「善」 第十一章 善行為の動機の中で、「善は行為である」と述べている。おそらく、「善」というのは、考えるのではなく表すものであり、行為によって体現できるものということだろう。

しかし、その行為も、

「人格的要求に反した時にはかえって悪になる。そこで、絶対的善行とは、人格の実現其者を目的とした即ち意識統一其者のために働いた行為でならなければならぬ」

と警鐘をならしている。

どうやら「人格的要求」は、「他者の存在を尊ぶ」というように解釈されているようだ。

当てはめて考えてみると、「他者の存在を尊ばない者は悪」ということになる。また、「意識統一其者」というのは、ユングの「普遍的無意識」と意味が同じに解釈されている。つまり、善とは深層心理に皆持っているもので、自分の中に持ち合わせている。そして、それを発見していく事が、「生きる意味」であると説いているのだと思う。

善は皆が持っているが気がついていない。しかし、自分のことしか考えていない場合は、善の人格に到底なり得ない。みんなのために、より多くの人々ために開かれた時、善になり得るということなのだろう。

 

このコロナ禍の中で、政治家、メディア、自粛警察、転売ヤー等もそうだが、身近な人しか気遣えていない私も、西田幾多郎から見れば「悪」なのかもしれない。