善の研究を読む その② 主客合一
「知」と「愛」とは普通には全然相異なった精神作用であると考えられて居る。しかし余は、この精神作用は決して別種のものではなく、本来同一の精神作用と考える。しからば、どのような精神作用であるか。一言で云えば、主客合一の作用である。我が物に一致する作用である。
(第4編 宗教 第五章 愛と知より抜粋)
私が他者に一致する時愛が生まれる。我々が花を愛するのは、自分が花と一致するのである。月を愛するのは、月に一致するのである。斯の如く、知と愛とは同一の精神作用である。
(第4編 宗教 第五章 愛と知より抜粋)
西田幾多郎は、個々の人間としての主体が客体を認識する場合にそれと合一するようなことを「主客合一」と言っている。「主客合一」となる場合には、純粋経験が最も大きくもっとも深く現れた状態ということでもあり、これが愛している状態であると意味づけている。
「知」というのは、言葉の力。つまり、理屈。
「愛」というのは、言葉を超えていく力。つまり、理屈を超えて物を認識していく力。
人をどんなに「知ろう」「知った」としても、愛することができないこともある。しかし、「愛」の力には、全く「知らなく」ても、人を愛することができることもある。故に、「知」だけでもだめ。「愛」だけでもだめ。つまり、「知」と「愛」両方が、必要だと説いている。
「知」と「愛」とが結びついたところに生まれる物が、人を豊かにするということなのかもしれない。たしかに、人間が生活するにあたって、「知」と「愛」がなければ、成立しないだろう。
「我が物に一致する」というのは、人を自分と同等、また自分より大切にしようということだろう。人を「愛する」というのは、自分より「愛する」ということだから。それは、友達、恋人、家族すべてに当てはまる。
もちろん、これは、自分を犠牲にしろと言っているのではない。「愛する」というのは広がっていくと、「自分の周りのためにやること」「誰かのためにやること」につながっていく。ことわざで、「情けはひとのためならず」とあるように、「誰かのためにやること」は、周り回って自分のところに返ってくる。それが、人生を豊かにし、楽しくさせるということと理解もできる。
まさに、豊かさの循環ではないだろうか?
これは、アドラーの「人生の意味の心理学」にもあったが、共同体感覚に近い発想のような気がする。
しかし、もっと、日本的で、いい意味で曖昧というか、はっきりしない部分もある。だが、「もののあはれ」「情緒」など、目に見えないものをを大切にする日本人の特性をよく捉えた概念でもある。