ポレポレ先生の実践日記

小学校で教員をしています。日々の出来事、思いを書いています。

善の研究を読む その④ 純粋経験と実在

純粋経験と実在について。

善の研究の中で、「実在」を「現実をそのまま、世界をありのままに捉える」と言う定義をしている。言い換えれば、私たちの判断の入る前が実在。

純粋経験」は、「私たちの判断の入る前=実在」が、主観と客観が合一、つまり、「主客合一」されている直接的な経験。

西田幾多郎は、「直観のほうに行きなさい。人は、どうしても数字で表されたり量で表せたりする方に従ってしまう。そうじゃない方に探るのが純粋経験と実在あり方だ」と言っている。

たしかに、一理あると思う。

私たちはいろいろな眼鏡(偏り、バイアス)をつけて世界を見ている。言葉、価値観、人生観など、違う人が見ていれば違うように見えている。当然私が見ているものと相手が見えているものは同じものを見ていても見え方が違う。また、「それは何?」問いかけた時点で、人が言葉で返そうとする。前に挙げたように言葉も偏りがある。言葉で返そうとするという事は純粋経験を薄めたり、落としたりする事になるだろう。論じてしまった時点で、主観や客観が入るので、それは純粋経験としては、薄くなる。

説明するということは、その出来事を小さくしてしまっているのかもしれない。

私は、美術館や芸術展に行き、作品を見て「ガツン」と脳に衝撃をうけた事があるのだが、それを言葉にして人に説明してもうまく伝わらない。そして、説明自体が陳腐になる。純粋経験は、「ガツン」と衝撃をうけた瞬間の経験なのだろうと私は解釈した。

西田幾多郎は、純粋経験をした時、人は物そのものになり、真の意味でものを見る、ものを知ることができると言っている。この状態を知的直観と呼んだ。無心になって物事に取り組んでいるときに知的直観が起こると言われている。

また、知的直観を妨げる物として、「思想」「思慮分別」「判断」があげられている。これら3つのものには、偏りがあったり、間違いない・正しいということに陥りがちになると述べている。

特に、「思慮分別」「判断」なんかは、教員が一番陥る部分なのではないかと思う。好き嫌いが発生したり、自分の経験則に雁字搦めになったりする傾向があるからだ。

加えて、西田は、日常性と非日常性についても言及し、日常の方にこそ価値があると説いている。

われわれは日常と非日常では、非日常ほうが価値が高いと認識されているきらいがある。

学校現場でもよくある。行事に鬼のように時間を割いたり、研究授業に必要以上に力を入れ通常の授業を犠牲にしたりしている。それを素晴らしいとしている空気感は、ベテランを中心にその傾向はまだ強い。しかし大事なのは日常で、日常の連続が日々につながっていくのである。日常に敬意を払うということが、よりよく生きていくことにつながるのかなと私はこの本を読んで強く感じた。

 

善の研究は、現代でも全く色褪せない素晴らしい哲学書であったが、もう2、3周読み込まないと正しい解釈ができそうにもない難解な哲学書でもあった。あと解説を調べなければ到底太刀打ちできなかった。

 

これをもって、善の研究のアウトプットを終えようと思う。次は、何を読もうか…。河合隼雄の本にしようかな。それとも、古典か。