自分の考えを受け入れてもらえるには
職員室の中で、改革派と保守派というくくりで分けるとしたら、私は改革派のほうに入ると思う。
ともかく学校と言うのは、非常に無駄が多い。とにかく会議が長い。金曜日の事だが、会議が終わったのが、18時近かった。内容も、中身も無いただただ無駄な時間が流れていっただけの会議であった。提案者は文章を棒読みし、どこがポイントなのかが全くわからない提案であった。重箱の隅をつくような意見も多く生産性がほとんどなかった気がする。
職員室の保守派、私は無難派とか前例派と思っているのだが、「前例に習え」という悪習は、学校現場を停滞させる1つの原因となっている。行事も然り、児童指導も然り、学校研究も然りである。時代が変わっているのに、こうも中身が変わらないのは甚だおかしいのである。無難もここまでくれば、「難が無い」ではなく「難があることに気づいてい無い」=「無知」なのかもしれない。
まぁ厳しい意見はさておき、自分の考えを受け入れてもらえるためには、相手の立場を理解しながら一緒に並走するような形をとって行かないとまず受け入れてもらえないだろう。良いものを紹介しても、実績を積んでも、その人だから出来るんだと思われてしまったらそこで終わってしまう。並走して一緒に取り組んだ上で無知を自覚してもらう事が、1番なのかもしれない。人に働きかけると言う事は、その覚悟を働きかける側が持っているかにかかっている。
遠くを見る
2月に入り、成績表を作る時期に入った。私の勤務している自治体は、他の自治体と比べて所見の書く量が半端なく多い。
総合所見だけで、約400字。総合的な学習の時間の所見が、約100字。外国語学習の所見が、約100字。高学年を担任したら、軽く1人600字を超える。私は中学年担任なので、外国語学習の所見がないので500字で幾分かはマシだが、やはりこの上なくきつい。平日は、会議、打ち合わせがきつきつで入っているので、所見を書く時間は無い。どうしても休日に書くことになってしまうので、2月の休日は、ほとんどどこに行くこともできず、ひたすら約40人分の所見を書き続ける。私はあまり文才がないので、1人の人にかなり時間をかけてしまう。加えて、一気に書けない性格なので、だいぶ前から準備をし休みのたびに少しずつ書きだめをしている。
本来は、こういうものも持ち出してはいけないのだと思うのだが、そもそも勤務時間中に所見を書く時間は存在しないので、ほとんどの人が私のように持ち帰っている事だろう。本来であれば成績処理の時間はしっかり確保されるべきなのだが、今の学校現場の本音ではまずそんなものは不可能に近い。
本当はこんな所見なんて、もっと字が短くてもいいと思う。他の自治体では、面談をして面談済の判子を押して終わりのところもあるらしい。こういったところでは、私の勤務している自治体は働き方改革などは全く進んでいる感じがしない。
まぁそんな愚痴はさて置いて、今年は、準備をしっかり行ったのでだいぶ効率よく進められている。もう8割がた書き上がっているので、だいぶ楽になってきた。しかしパソコンばっかり見ていると目が疲れてきてなかなかしんどい。近くのものを見すぎるとやっぱり体にくるものである。
私の家からは、きれいに山々が見えるのであるが、最近ふと見てないなぁと思いコーヒーカップを片手にちょっと遠くを見てみることにした。するとどうだろう、気持ちがすーっと楽になりまた所見を書こうと言う気になる。遠くを見ると言うのは、わずかでもリフレッシュになるものだ。自然の力は偉大かもしれない。
さぁラストスパートがんばるか!
保護者からの電話
今我がクラスでは、総合的な学習の時間で福祉について勉強している。探究活動1では、車いす利用者さんとの関わりから困り感や、前向きに生きていることを学習した。探究活動2では.、実際に街に出て、車いす利用者さんを始めとする、障害を持っている人たちにとって街は優しいのだろうか?と言うテーマで調べ学習を進めている。
学習もだいぶ進んできたので、子供たち自身の興味の持ったテーマがだいぶ絞れてきた。来月末にある学習発表会に向けて順調に学習が進んでいる。
そして、ここ数日、意欲のある子たちが、放課後に集まって独自に街を調査し始めた。ある子はお店に行き、ある子は公共施設に行く。事前にどんなところに興味を持っているかはある程度把握しているので、私も施設の人たちに挨拶周りをしているのだが、昨日その挨拶まわりから帰ってきたら、ある保護者から電話があった。
内容は、「子供たちが自主的に街を調査すると言うのは安全面において学校はどう考えているのか?もし何かあったら先生は責任が取れるのか?」というもので、かなり激昂されていた。
私は、「あくまでも子供たちが自主的にやってることなので、お家の判断もあります。お家の方が危険だ危ないという判断ということであるならば、させなくても良いと思います。しかし、買い物の行き帰りや、習い事の行き帰り等でもそういったリスクはつきものだと思います。子供同士で遊びに行くことでもありえる話だと思います。大事なのは我々が、きちっとした安全指導をしつけられるかどうかなんじゃないかなと思うんです。ただ、私の考えも軽率でした。」と伝えて電話を切った。
私的には、学びに向かう姿勢が育ってきたことに喜んでいた矢先だったので、思いっきり冷水を浴びせかけられた気分になってしまった。ただその保護者が言っていることも一理あるし、無視するわけにはいかない。不安だなと思っている保護者の子に対しては、私が引率するなどのケアするほうが適切だろう。しかしもう一方では、クレームに対して屈した形になるのが私的にはかなりしゃくだった。教員をやるのもやりにくい時代になってしまったと悲しくもなった。
そして今日、朝になっても気分は晴れず鬱々としながらクラスに行った。
すると、昨日電話をしてきた保護者の子が、
「先生昨日は大変ご迷惑をかけしました。昨日父さんを説得したので、調査に出かけて良いことになりました。だから大丈夫です。」
と話しかけてきた。
正直、私は驚いてしまった。と同時に、逆になんて私はちっぽけな人間なんだろうとすごく恥ずかしくなってしまった。
そしてその子のまっすぐな気持ちに、応えてあげなければならないなと考えてしまった。
放課後、私はその子を含むチームを引率し課外授業へと出かけた。
なんだか、小学校に戻った気分になった。一緒に活動した2時間は、私にとってもかけがえのないものになった気がする。
楽しかった。放課後子供たちとこのように関わるのは、何年ぶりだろうか。
きっかけは保護者からの電話だったが、結果は悪いものにはならなかった。
なんだか今回は子供の前向きな姿勢に助けられた。私もまだまだ修業が足りないなと思わされた出来事となった。
席替えも立派な支援
席替えをクジでやったり、子どもたちに決めさせたりしていないだろうか?
私は席替えこそ、教員の専権事項だと思っているのでめったなことで、クジや子どもたちに決めさせる事はしない。
何故かと言うと、席替えも立派な学習支援になり得るし、特別支援的な観点からもすごく重要だからである。だから適当にやるわけにいかないのである。
そこで私が経験から感じた、座席の配慮について今回はまとめてみようと思う。
①窓側前列
ここは、問題行動を起こす子どもを配置するにはもってこいの場所。離席しにくく教室を出にくい。
ここに配置するのは、集中できにくい児童、多動で他の子を巻き込んでしまう児童が適している。窓側が教室の左側にある場合には、左利き児童にとって板書しやすい場所にもなり得る。
弱点は、担任の導線が悪いので個別支援の児童には不向きである。
②教壇前列
ここは、担任の個別支援が最も受けやすい場所である。授業開始の準備、提出物の用意に時間がかかる、学習が遅れがちな児童向けの場所である。目が行き届きやすく、注意喚起しやすい。しかし、後から目に付きやすいので、立ち歩きがなく他の子の邪魔にならないタイプの児童を配置すると良い。また、他の配慮自動と隣になる可能性も高いので相互にモデルになりにくいのが弱点といえよう。
③廊下側前列
出口近くで集中しにくい。刺激に対して比較的耐性の高い児童向けの場所である。
④窓側後列
お客さんの立場になりやすい。しかし比較的広いスペースがあるので、整理整頓に課題のある児童向けの場所と言える。
⑤教室中央
周りの児童から支援が得やすい。行動が比較的おとなしめで、周りへの影響が少ない児童が適している。学習の理解に課題があり、時間がかかるような児童が適している。板書が見えやすいのもメリット。
⑥廊下側後列
前方児童の学習の態度や動きがモデルとして効果的に理解できる。いろいろなものが見えても反応することがない視覚刺激への耐性が強いタイプ向きの場所。離席や教室外に出る児童が他の児童に影響が与えることが少ない場所でもある。しかし、担任の目が届きにくいと言うところがデメリット。
席替えも、ただ気分転換で行うのではなく、攻めの特別支援の1つとしてぜひ使って欲しいなと思う。
河原に行きたい
冬にやってみたいことの一つが、冬キャンプ。
日帰りでも泊りでも良いのだがとにかく河原にテントを張ってゆったりと過ごしたいものだ。
本当は、今回の3連休で河原に行って焚き火で焼き芋を作ろうと思っていたのだが、息子が40度近い熱を出しあえなく延期となってしまった。
焚き火で作った焼き芋うまいだろうなぁ〜。
コーヒー片手に焼き芋。そして緩やかな時間。
1日1日がジェットコースターのような現場なので、どこかでゆったりとした時間がないと精神的に疲弊してしまう。というか、もう疲弊ぎみ。
厳しい現場を生き抜くためには、日常と非日常を上手に使い分ける必要があるのではないかと最近つくづく思う。
河原に、来週あたり行けると良いのだがなぁ〜。
いじめを防ぐ手立ては、傍観者がカギ
2ヶ月ほど前に、ある発達研究所のいじめ防止セミナーに出てきた。
あまりにも忙しすぎて、やっと資料等を見返しながら振り返っているところだ。
その研究所では、いじめを科学的に分析して、心理学的側面やデータ的な側面を生かしていじめについて考察していた。特に鍵になるのは、傍観者の存在だ。
データを簡単にまとめると以下のようなことになる。研究は海外のデータをもとにしていて文化的な観点が抜けているのは気になるが、人間の行動心理と言う所では参考になるデータだろう。
• いじめエピソードの85%に傍観者が関与。37%が単に見ているだけで、63%がいじめ加害者と同じゲームや活動に参加していた。
• いじめエピソードの74%で傍観者は加害者の側に立っていた。(被害者の側は23%)
• 傍観者がいた85%のうち、13%で傍観者がいじめをやめさせようとしていた。
•学校職員は、いじめエピソードの4%しか介入しなかった。
• ある2つの小学校で3年間、子供たちの様子を観察したところ、88%に傍観者の存在があった。
• 小学校1年から中学2年までの児童生徒4743人を対象とした調査によると、83%の傍観者が、いじめ状況を不愉快だと感じている。(しかし、そうしたくないにもかかわらず、いじめの考えに変わってしまう傍観者が31%いる)
• 傍観者がいじめを止めようとした場合、全く効果がなかったが26%、効果があったかどうか判断できなかったが17%に対し、効果があった(数秒以内いじめが止まった)のは57%だった。
つまり、いじめは、普通、大人に見つからないように行われる。しかし子供たちの中で行われ、子供たちの中に目撃者がいる。それは、いじめの目的が、集団内での力を得ること、友達からの承認を得る事の場合が多いためである。
また、いじめの加害者、被害者を見つける事は難しいが、傍観者(目撃者)を見つける事はたやすい。なぜなら大人の前にいる子供のほとんどが傍観者(目撃者)であるからである。
傍観者は、何も行動しないことが多い。だが、「いじめなんて、やめてほしい」と思っていることが多い。そして、そんな傍観者がいじめをやめさせようと行動すると、いじめをストップできることがわかっている。特に、傍観者が集団で異議を申し立てた時に強い効果を発揮するということである。
いじめ問題は起きてからでは遅い。だからこそ傍観者を育て協力者へと変えていくことが非常に大事である。このシステムを学級の中に取り入れればいじめを予防できることにつながると考えながらこのブログにまとめているのであった。
心がない教員が増えた
昨日は書き初めだった。1、2時間目体育館に集まり、自分が決めた言葉を心を込めて筆で書く。学年間でおしゃべりをせずにしっかりかかせようと共通理解をしていたが、やっぱりじいさんの所と若手のところはギャーギャーうるさい。終われば、遊びだす児童もいてそれを見ているだけで注意をしない。注意をしないと言う事は、子供たちに対してそれをいいですよと認めたようなものだ。なぜ私だけが動いてそういう子たちを諭しているのだろうか。
加えて若手のところは、習字バック忘れた児童がいるのだが、教室で泣いているのを放置して「あいつが悪いんですよ」と言う始末。私が習字バックを貸し、事なきを得たがこのまま放置するつもりだったのだろうか。
最近の若手やベテランは全くわかっていないのだ。自分の行動や振る舞いが、大きく学級経営に関わっていると言うことを。さっきの状態をそのままにしておけば、協力してくれている子供たちの離反につながる。行く先は学級崩壊、騒乱状態だ。
一方うちのクラスの子供たちは、非常に集中していた。誰も話す人もいなかったし、時間をかけてじっくり自分の字と向き合っていた。
終わった後も、片付けがとても早く、クラスに戻ってきてからも出した自習課題に黙々と取り組んでいた。
きっと我がクラスの状況を見てもなんとも思わないのだろう。他の3クラスは、お互い傷の舐め合いでもしながら、レベルの低いところで漂っていれば良い。
今まで何度も言ってきた。方法も教えてきた。しかし、取り組もうとしてこなかった。そのような姿勢を子供たちは厳しく見ている。それが今の若手、ベテラン問わずわかっていないのだ。
最近別の学年の若手が私の学級を見にくるがエッセンスを取り入れてかなりレベルを上げてきている。科学的に証明された方法をとっているのであるから、やれば成果に上がるのになとすごく思う。
なぜ力のない人ほど、良いものや、成功している事例を取り入れないのだろう。子供の所為などにせず、自分と厳しく向き合い、指導に生かさなければ、ただの給料泥棒だ。
何回も口を大にして言いたい。我々の振る舞いは常に見られている。そしてその振る舞いによって指導が通るか通らないかも関わってくる。
もうこの3人はダメだろう。人を育てると言うのは難しい。むしろ人なんていうのは育たないのかもしれない。
主体的な学びと新学習指導要領にはあるが、教員が主体的に学ばなければ学校は終わるだろう。今教員として必要なのは、主体的に学ぼうとする意欲の高い者だ。きつい言い方だが、再生できない教員のスクラップを始める時期に来ているのかもしれない。
それだけ昨日の事は、私は頭にきた。